萩尾望都の漫画『トーマの心臓』。友人に勧められて読んでみました。今回の日記は完全ネタバレです。が、ネタバレしてても分かったような気にナカナカなれないのが『トーマの心臓』だと思います。
発表は50年近く前、1974年の作品です。赦しとは何か、愛とは何か、という深遠なテーマを一直線でなく複数の線から論じていくような作品ですね。これを20代で発表した萩尾望都はすごいなと思います。こういう作品を10代20代の頃に読んだら、作品というものに対する眼は厳しくなるでしょうね。
キーワードは「アガペー(神による無限の・無償の愛)」であると友人が教えてくれました。
「アガペー」・・・?考えたこともなかったです。Wikiで調べたところ、ギリシア語には愛を表現する四つの言葉があってそれぞれ、
1 エロス (性愛)
2 フィリア (もう一人の自分への愛、友情、忠義、同胞愛)
3 ストルゲー (自然な偏向による愛、家族愛)
4 アガペー (無限の・無償の愛)
なんだそうですね。
『トーマの心臓』にはこの四つの愛全てが描かれていますが、アガペーは、これは主人公ユーリ(ユリスモール。以下ユーリ。)をめぐる物語。
バッカス 「どうしたんだい?きみは笑ってるね / いとも幸福そうに」
ユーリ 「ええバッカス / ・・・・神さまは / 人がなんであろうと いつも愛してくださってるということが / わかったんです」
自分に絶望して生きる屍だったユーリが心を取り戻すこのシーン、直前の墨ベタを多用した重苦しい夜のシーンから一転、紙の白さを強調するような、キラキラと爽やかな風とともに明るい朝として描かれてるんですよね。気持ちがいい。朝って気持ちのいいものだったんですね(苦笑)・・・。
ユーリの絶望はイカした先輩サイフリートの誘いに応じたことが原因です。漫画ではさすがにボカされていて(時代と発表媒体を考えるとムリもないです)一読しただけだと何があったのか分かりにくかったのですが、要するに、誘いに応じてサイフリートの夜会に参加した結果、彼に脅され性暴力の犠牲になった、ということですね。(これが描かれた通りの、単に肉体的な暴力によって思想信条の転向を強いられたという話なのだとしたら、自責の念が生じる余地はないように思います。)
ユーリは家庭の事情から、つねに完璧な人物を演じ続けることを心がけているような「よい子」です。が、完璧なよい子を演じ続けようとしたユーリにも、それとは相反する心の動きがあってサイフリートの誘惑に乗った。乗った挙げ句ひどい目にあった。完璧なよい子である彼は、一晩の屈辱よりも、サイフリートの誘惑に、“なんかだいたいわかってた”のに乗ってしまった自分をこそ許せない。愛する友人達を裏切ってしまったと。もっともサイフリートも、ユーリの負い目である人種的特徴を(負い目だとおそらく分かっていて)魅力的だと褒めてみせるなど、上手いこと敵対関係を利用して誘い方がなかなかズルいんですよね。ユーリの人種的特徴こそは、彼が「よい子」であり続けねばならない、抑圧し克服されるべき「自然」です。(しかし僭越ながらホントに細かいところまでよく作り込まれてると思います、この作品。)
ユーリは自分に絶望し、心を失くしている。事件後もユーリは変わらず優等生を演じていますが、心の中はグレてます。自分が許されることはあり得ない。だから許してほしいなどと言わない。絶望している者はもはや行いを反省して改めようとか、反省してやっていくとみんなに誓おうなどとは考えないものです。自分には自分が裏切った友人たちの仲間である資格はない、と彼は思い詰めています。
そんなユーリを見かねて手をさしのべるのがオスカーでありエーリクでありトーマなわけですが、最も衝撃的な行動に出たのがトーマです。ユーリに一通の手紙を遺して自殺します。重いっ。ユーリも重いっ・・・と言ってます。言ってません。あんな自分の押し付け方はない、僕に後を追えというのか、君に支配されはしない、とか言ってました。
ユーリはトーマが自分を好きだということは知っていました。トーマの死を知り遺書を受け取った時のユーリは、まだトーマの行動が無償の愛の贈与だとは思っていないわけですね。ムリもないと思いますが。トーマがユーリに贈った愛は難解ですから・・・。で、トーマがユーリ宛に遺した手紙というのがこちら
「ぼくは ほぼ半年のあいだずっと考え続けていた
ぼくの生と死と それからひとりの友人について
ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
だから この少年の時としての愛が
性もなく正体もわからないなにか透明なものへ向かって
投げだされるのだということも知っている
これは単純なカケなぞじゃない
それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない
彼がぼくを愛さねばならないのだ
どうしても
今 彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない
人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去れることの死
それなら永遠に
ぼくには二度めの死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)
そうして
ぼくはずっと生きている
彼の目の上に 」
・・・この難解な手紙がオープニングシーンを見開き一面で飾ります。トーマの手紙の謎(トーマはなぜ死んだのか)、ユーリの心の謎(サイフリートの件)、物語は二段構え(二本柱)になっています。奥行きがあります。深さの感じ、あります。読むのに体力使います。疲れます。
「今 彼は死んでいるも同然だ」
←トーマは、ユーリが心を失くした原因は知りませんが、彼が心を失くしてしまったこと、何も愛せなくなってしまったことは理解しています。
「ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない」
←エロスもフィリアもストルゲーも問題ではない。自分の愛を押し付けたいわけではない、自分の愛を受け止めなかったことを罪悪感と共に一生悔いろと言いたいわけではない、ということですね。(ちなみに、とある事件においてトーマはユーリにフラれてます)
「彼がぼくを愛さねばならないのだ / どうしても」
←トーマは表面上は自分をフったユーリが、実は自分を愛していることを感じ取っていました。にもかかわらずユーリがその愛と向き合えない理由について、「ほぼ半年」考えていたわけです。そして彼が「死んでいるも同然」である理由をつきとめたのでしょう、愛する心が失われているのだと。
「ぼくには二度めの死はないのだ」
←二つの生がある。一つは動物としての・物質としての生、もう一つはこうした物質的限界を越えて人々の心の中で生き続けるところの精神としての生。トーマはユーリへの愛&ユーリからの愛(「純粋な、性のない、少年の時としての愛」)を永遠のものとするため、ユーリにとって忘れ得ぬものとするため(「彼は死んでもぼくを忘れまい」)、自らの時間を止めることを選びます。たしかに、死一般ではなく、ある特定の誰かの死を想い出すことは、その誰かと強烈に結びついている何かを想い出させますからね。純粋な愛することそのものを「彼の目の上に」留め続けること。それがトーマの行動の意味です。・・・難解です。BLめいた物語設定の意味もここにあります。しかしこんな複雑な理屈考えつくでしょうか、フツウ、萩尾望都すげえなって思いました。
トーマの決意は壮絶ですが、ユーリの心は、トーマの死&トーマの手紙だけでは開かれません。ユーリの心が開かれるためにはあとオスカーとエーリクという二人の人物からの「愛」が必要でした。ここ三段構えですね。山水画で言うところの「三遠」です。そんな感じだと思います。ユーリの闇の深さを感じさせます。
エーリクはフラれてもフラれてもユーリを愛し続ける、まさに打算・計算無しの、無償の愛。事と次第によってはストーカーです。ウザいと言われかねません。気をつけたいですね。無償の贈与たる愛は、やはりこれみよがしではなく相手に「愛」であると気づかれてはいけないようなものなんでしょうか・・・。何も言わない片想いから繰り出される気づかれない行為もそれはそれで怖いでしょうけれども・・・。ともあれ、エーリクに生きることそのものへの愛があることを認めていたユーリの心は、エーリクが彼に見せた無償の愛によって動きます。
一方のオスカーは、ユーリが彼らの想いを裏切ってサイフリートを選んだことを知ってはいるけれども、苦しむユーリを〈見守り続ける=赦す〉係。オスカーのこの行為が、ユーリに赦しのなんたるかを気づかせます。この赦しのロジックがほとんどヘーゲルです。
「もう ずっと― / ずっと― / ぼくは 幸福では なかったか―? / 翼を失い 心を閉ざして なにくわぬ顔をし / 日びを 送っていた 時も / トーマがぼくを 愛してると知って 苦しんだ時も / その遺書を うけとった 時も ・・・」
オスカーは自分が裏切られたこと、ユーリが自分の愛に応えることができないことを知りつつ、ユーリを見守り、愛し続けます。こちらは、それが贈与であることをユーリに気づかれることなく、です。さきほどの純粋な贈与、無償の愛の条件を満たしてますね。怖くないです、良かったです。ちなみにオスカーがここまでの大人っぷりを見せるに到ったプロセスは『訪問者』という作品で語られています。(なので、物語の奥は更に深いわけです。萩尾望都の作品はみな、人間を簡単に理解できると思うなと迫られているように感じます。)
オスカー=キリストの愛を知って、ユーリはトーマからの手紙の本当の意味を受け容れます。どんなに不幸なときでも、背信行為を働いているのに、幸福だった(愛されていた、存在=行為を受け容れられていた)と。ヘーゲル的に言えば、疎外された悪そのものがそもそも生(神の一部=自然)に含まれていたのだとすれば、いつかそれは弁証法的に総合(アウフヘーベン)されるべく、自己自身と和解するべく運動を続けるのだ、ということなのでしょう。いわば、生きるということはどんな時にあってさえ、私の生を〈赦してください=愛してください〉という行為遂行的メッセージを含んでいるのだ、と。そうかも知れません。死刑の現場を視察して書かれたジョージ・オーウェルのエッセイ『絞首刑』という作品を読むとそんな感じがします。鬱も、自傷行為も、そうしたメッセージを含んでいると解せるように思えますし。ともあれ、ユーリは、生きている存在としての自分を赦したわけですね。
赦しは、許してほしいなどと口にする資格はない(と思い込んでいる)者にも、自分は彼らの仲間ではないと思い込んでいる者にもまた、与えられることができる。こうして心を取り戻し絶望のどん底から救われたユーリは、しかしエーリクとオスカーの愛に応えるでもなく、突然神父になることを決めます。ここ、すごくないですか?理解不能です。
オスカーは言います「トーマは彼をつかまえた」、と。
純粋な、計算なき贈与としての愛を引き受けるため、もはや俗世と切れて(「そうして それが 僕らの わかれ」)神父になるほかない、ということなのでしょうか。そのことを責めるつもりはもちろん私にはありませんが。なるほど、神(=自然・事物)という完全な第三者の立場に立てば全て人間の行為は「かわゆい」かもしれません。しかし、いつでもその立場に立つことができるかというと、そういうわけにはいきません。たとえば自分が食べられちゃうとか。全ての行為を可愛いと受け止めることの出来る存在にとって罪とはなんだろうか、と思います。罪とはとことん人間的なものですから。もしも完全なる第三者の立場に立つ以外にそうした境地はあり得ないのだとすれば・・・・・・とは言え、
「彼がぼくを愛さねばならないのだ / どうしても」
誰が赦すのか、なぜ赦すのか、赦さなければならないのか、赦しとはなんだろうか・・・この物語に描かれているのはこうした問いではないかと思います。
アガペーというテーマは重いし、難しい。「少年」という特殊な設定によって初めて可能になった、フィクションの中にのみ存在する何かなのかも知れません。アガペーを表現しようとしつつ、しかし論理的には・・・という葛藤があるようにも思えます。すべては萩尾望都の独特な空気感に包まれて存在する。
というわけで、この作品は非常に美しく透明感のあるラストシーンで終わるわけですが、万事解決ハッピーハッピーなエンディング・・・ではかならずしもないような、遙か彼方にうっすらと悲しみの予感のようなものが漂う(ように感じませんか?)、初期作品にして既に萩尾望都な作品だな、と思います。
次、モー様のSFにチャレンジしたいと思います!
(有賀文昭)
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